労務問題
急速な経済発展を遂げる中国では、労働者の権益保護を強化する法整備が進み、労働争議が増加する一方、賃金も上昇している。中国における労務リスクは、日本と異なる商習慣や社会問題、頻繁に制改定される労働関連法規や制度への理解不足に起因するところもあり、企業が事業活動を行う上で対応が難しい問題である。労務問題は、中国で事業運営する際のビジネスリスクの中でも特に留意しなければならない問題といえるだろう。
ストライキが断続的に発生した2010年は、労働争議が中国リスクとして改めてクローズアップされた。ストライキを経験した企業関係者が、「人の管理や給与体系、労使関係の構築が一番大切だと再認識した」と語るように、日頃からの労務管理がリスク対策につながる。ここでは、労務リスクを、(1)労働争議、(2)採用難、(3)離転職、(4)人件費上昇、(5)現地人材の育成の5つに分けて、日本企業のリスク認識、課題、取り組みを紹介する。
(1)労働争議10
10 中国の「労働争議」の定義には、ストライキ等、争議行為が発生している状態のみならず、労務問題を原因にして発生した労働者個人の紛糾も含まれる。08年に受理された労働争議申し立て69万件のうち、集団によるものは21,880件(構成比3.2%)。
急速な経済成長が続く中国では、所得格差も拡大している。労働者の権益保護を強化し所得を向上させることを目的に、労務関連の法制度は近年、一段と強化されている。08年には労働契約を規定する「労働契約法」と労働争議の仲裁を定める「労働紛争調停仲裁法」が施行された。労働仲裁機関に申し立てる仲裁費用の無料化で労働者からの申し立てが容易になったことも手伝い、08年に申し立てが受理された労働争議件数は69万件と前年の2倍に急増した。
09年は、世界的金融危機の影響を受けて業績回復や雇用確保が最優先となり、労働争議件数は68万件と微減したが、09年後半から中国経済のV字回復が鮮明となり、年前半の昇給抑制もあって労働者の賃金引き上げ期待が高まった。このため、10年は断続的にストライキが発生した。部品メーカーでのストライキ長期化が納品先の生産活動に支障を来たしたこともあり、改めてそのリスクが注目されている。
①予防策
中国企業や台湾企業との合弁会社の場合、「合弁相手が労務管理をしっかりやっているため心配がない」、「合弁のメリットは労務面を任せられること。問題は起きていない」という意見が聞かれた。また、独資企業でも、ストライキが起きそうになったときに未然に防げた理由として、「要となる中国人幹部の存在」を挙げる企業が多かった。従業員に関わる労務リスク低減のための特別な手段はなく、日頃のコミュニケーションを通じて、労働者の些細な不満や意見を吸い上げることが重要であるが、日本人だけでは難しいケースが尐なくない。
ストライキの原因となる労働者の不満は、社員食堂の食事が不味いといった些細なこともある。従業員との日頃のコミュニケーションをできるだけとるように努めると同時に、意見を吸い上げるため、福利厚生に関するアンケート調査の实施、従業員のウェブサイト掲示板への会社批判投稿の確認などを行っている企業もあった。また、普段から従業員重視の姿勢を示し労使間の信頼関係を構築するために、レクリエーションや社会保険などの福利厚生制度の充实を活用することも考えられる。
②対応策
サプライチェーンへの影響を考えると、ストライキが発生した際には迅速な解決が求められる。迅速に解決している企業は、ストライキが発生した場合の労使交渉はスピードを優先し、昇給決定も含め本社には事後報告で対応することを認めるなど、現地への権限委譲が進んでいる。
日頃から当局と良好な関係を構築し、問題が起きたら直ちに労務局などの行政機関に相談することも欠かせない。また、労務問題に長けた中国の弁護士の協力を得るなど、専門家の力を借りることも適切な対応策の1つである。さらに、毅然とした対応をとることも重要だ。労働争議の萌芽があれば小さい問題であっても徹底的に対処することで、労働争議の拡大防止を図る企業もある。
ストライキは、1件発生すると飛び火的にストライキが増える傾向もあるので、1社だけで防ぐことは難しい。高い昇給率で妥結した他社の水準を基準に、新たなストライキが発生し昇給を迫られることもある。日系企業同士、進出地域の企業同士で、ストライキが起きた際の対応を情報共有すると良いだろう。
(2)採用難
中国では、大学生の増加に伴い大学新卒者の就職難が深刻化する一方で、需給のミスマッチから、企業側が求める人材の採用難がワーカー、技術者、中間管理職とあらゆる層で起きており、事業運営上の問題となっている。
採用難への対応として、教育機関との連携を行う企業もある。例えば、即戦力のワーカーを確保するために専門学校とタイアップした人材育成に取り組む、大学の冠講座に技術者を派遣して授業を行い優秀な学生を採用するといった対応である。
また、専門性が高い職種は、需要が高いものの労働市場に求める経験者が不足しており、若い人を採用して一から育てる動きも出ている。大学からインターン生を募り、後に、その中から正社員になってもらうことで安定した人材確保ができている企業もある。
(3)離転職
尐しでも良い条件の会社があると簡単に転職すること、技能を持った社員が引き抜かれることなど、社員の離転職に悩む企業は多い。社員の定着率が高いある日本企業は、自社の定着率が高い理由を「幹部に中国人がいて職場の雰囲気がよいこと、コミュニケーションがよいこと」と分析する。
離転職を抑える条件の1つは、社員のモチベーションを向上させる職場環境をつくることである。例えば、やる気のある社員に応えるため、实績を挙げた人材を昇給・昇進させるといった、新たな給与・昇進制度を導入する企業がある。自分が会社の歯車として使われていると思うと仕事へのやりがいは感じられないが、自分が成長していること、またそれが認められていると实感できることが働くモチベーションにつながる。また、上位ポストに登用する社員を増やし、中国人でも現地法人の役員になれることを示すなど、キャリアの発展性を広げている企業もある。即戦力を採用するばかりでなく、企業文化を分かった人材を育てるために新卒採用に力を入れる動きも強まっている。
もう1つの条件は、コミュニケーションが図られ職場の雰囲気がよいことである。採用から3カ月以上経過した社員の定着率がほぼ100%というある日本企業は、「上下関係より人間味を重視した職場環境をつくることを心がけており、処遇についても、残業・休日出勤手当てなど同業他社より恵まれた条件を出している」としている。また、別の企業では、食堂の食事を工夫し、昼食後の気分転換のための運動や、社員交流のイベントを行うなど、一日の大半を仕事に費やす社員が居心地よく楽しく働ける環境をつくっているという。
人材が不足し引き抜き合戦が行われるような専門性の高い職種については、転職をコントロールするのが難しい。このため、常に、バックアップの人材を備えることで対策をとるところもある。
(4)人件費上昇
ジェトロが中国に進出している日系企業を対象に行った調査では、「従業員の賃金上昇」を課題とする企業の割合は8割に上り、経営上の最大の課題となっている(第1章Ⅴ.「日系企業の事業運営動向および問題点・課題」参照)。中国政府は第12次5カ年規画期間(11~15年)に、法定最低賃金を毎年13%超引き上げる目標を設定しており、今後も人件費の上昇が続くことが見込まれる。
人件費上昇への対応については、いくつかの対応がみられた。
第1には、「人件費は製造コストの10%にも満たないので、給与は思い切って大幅に上げていく」という考え方で、給与を上げることで、人材引き止めにつなげる対応だ。また、人件費が上昇しても、駐在員のコストより依然として低い状況では、「コストの高い駐在員を減らしローカルスタッフに替えることで人件費の高騰を補う」といった対応をとる企業もある。
第2には、人件費を上げるものの、経営状況に応じた上昇幅となるような制度を構築する考え方である。例えば、上昇幅を会社や個人の業績に対応する「ペイ・バイ・パフォーマンス」の仕組みをつくる会社や、生産性の向上に応じて賃金を上げるような人事制度を構築するところもある。
第3には、社員数を最小限にとどめるための自動化・省力化の考え方だ。例えば、「労務費が倍増したら、人数を半分にする発想」で工場のオートメーション化を図る企業も増加傾向にある。また、「単能工型ワーカーを多能工型に育てることで、より尐ない人数で業務負荷の平準化を図る」企業では、同時に人が替わっても支障がないように業務の標準化を進めている。
(5)現地人材の育成
近年、労働市場に供給される若い世代は、一人っ子で甘やかされて育っており、人材の質の低下を指摘する声がある。また、大学教育も、進学者の増加でエリート教育からマス教育の段階に入り、大卒の平均レベルは低下している。その一方で、産業の高度化とともに、人材に求められる能力は高度化している。
あまりに速いスピードで中国事業が急拡大する中で、社内の人材育成が追いついていない状況に危機感を持つ企業は尐なくない。特に、マネジメントクラスや専門職など、労働市場に尐ない人材は売り手市場となっており、経験者を市場から獲得することが難しいのが現状だ。このため、これまでは「使えない人材は替えてきた」企業でも、今後は、「今いる人材をいかに育成するか」が課題となっている。
人材育成に近道はない。現在、成功企業として取り上げられるある企業は「成功の要因で一番高い評価は社員教育」としながらも、当初は日本的な挨拶教育などに反発があり、定着するまで「社員の半分が辞めた」という。また、いずれ中国進出する際に備え、中国の大学を卒業した人材を採用し、日本で技術を学ばせている中小企業もあり、中長期的な計画が必要だ。
育成した人材が会社に貢献する前に離職するリスクも低くはない。前述の「離転職」の項に記したように、優秀な人材を引き止めるためには、モチベーションを向上させる職場環境をつくり、それなりの処遇を施す対策が必要である。ただし、離職を完全になくすことは難しい。育てた人材が転職しても、次の職場で高い評価を得られれば、自社の評価も高まり、よい人材が集まってくると思い、人材育成に取り組んでいくしかないだろう。