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2001年の飛躍

 

 世紀の変わり目あたりから中国経済を振り返ってみる。1998年から2000年にかけての3年間、中国は朱鎔基総理(当時)の指揮の下、国有企業・金融・行政の三大改革に取り組んだ。GDP成長率の鈍化傾向も歯止めがかかり、00年には8%成長を回復した。対中投資についても、WTO加盟の最大の山場といわれた9911月の米中交渉妥結あたりから巨大市場中国の開放が現味を帯びたことで、第3次ブーム(200005年)2が幕を開けていた。

 

 01年、中国は対外的なプレゼンスを著しく向上させた。7月に北京へのオリンピック招致が決まった。9月11日に米国で同時多発テロ事件が発生すると、江沢民総書記はブッシュ大統領と電話会談を行い支援と協力を表明した。10月には上海でAPECを開催、11月にASEANとのFTA10年以内に締結することで合意、12月にはWTOに加盟した。景気も上向く中、江沢民政権は02年に上海への万博招致を決め、また共産党の憲法ともいうべき党規約に「三つの代表理論」と私営企業家の共産党入党許可を盛り込んだ。当時、中国の将来予測といえば楽観論が支配的で、中国は国としての面子もあり08年の北京五輪、10年の上海万博を終えるまで成長を維持するだろう、などといわれていた。

 

 しかしそうした国際的プレゼンスの向上の陰で、沿海部とその他地域、都市と農村、工業と農業の発展格差の問題は未解決のままといえた。世界有数の黒字国となったことで欧米諸国との貿易摩擦問題も深刻化した。中国の貿易の中心は加工貿易であり、原材料や半製品を輸入し製品化して輸出するため、貿易黒字の拡大が止まらなかった。経済発展の結果として出現した大量生産・大量消費型社会により、公害問題、水不足、資源安全保障上の懸念は増大した。

  

 上海閥が中心となり経済発展に邁進した前政権の後を継いだ胡錦涛総書記は、温家宝総理とともに親民路線を打ち出した。それまで毎年夏になると共産党の幹部は、河北省の北戴河に集まり国政の重要事項を協議していたが、その「北戴河会議」が廃止された。北戴河は中国有数の避暑地だった。また温家宝総理は、就任した03年の大晦日、炭鉱で労働者と共に年を越した。

  

 しかし発足当初から政権は困難に見舞われた。03年には新型肺SARS)流行への対応に際し、感染情報の隠ぺいがあり3、政権の信用は国内外で傷ついた。0405年にかけては電力不足が発生し、沿海部の企業の生産活動に悪影響を与えた。05年には反日デモが発生した。日系企業の間では、製造・販売拠点の過度な中国依存を見直す「チャイナ・プラス・ワン」模索の動きもみられた。国際協力銀行のアンケート4によれば、「日本企業の考える有望な事業展開先」のランキングで当時の中国はダントツの第1位であり、03年調査では90%を超える企業が中国を有望と見ていたが、この比率はその後08年まで低下を続けることになる。

  3 420日、北京で発表された感染者数は339名となった。これは5日前の37名の9倍であった。その他、死者も   18名あった。

   4「わが国製造業企業の海外事業展開に関する調査報告」

   5 人民網日本語版20051012

 

 それでも貿易額、黒字額、外貨準備は200105年にかけ拡大を続けた。貿易額は5,097億ドルから1兆4,219億ドルと3倍弱に、黒字額は226億ドルから1,020億ドルへ4倍強に、外貨準備は2,122億ドルから8,189億ドルと4倍弱に膨れ上がった。他方、前政権時から懸案だった対外不均衡は、是正どころか拡大の一途をたどっていた。国際収支統計の誤差脱漏も資本流出から流入に転じ、人民元はもはや切り下げではなく切り上げが取りざたされる通貨となっていた。05年7月、中国は人民元の対ドルレートの2.1%の切り上げと通貨バスケット制への移行を発表した。人民元の対ドルレートは、その後3年にわたり上昇カーブを描くことになる。